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​親バカでいい ビリー諸川の子育て論

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第1話

娘の小学校のPTA会長を5年、保護司を6年、そして2016年9月からスタートしたロカビリー・キッズ・ツアーと、僕なりに子どもたちと関わり、子どもたちから学んだことをこの『親バカでいい』の頁では書かせて頂きます。

1、「子どもは親を選んで生まれてくる」
あれは僕がPTAの会長になったばかりのときでした。あるお母さんから、「子どもって、空の上から神様に“あのお家の子になりたい”って生まれてくるんですって」と聞いて、えらく感心したのを覚えています。
今、僕の娘はギターを掻き鳴らしながらロカビリーを歌っています。最近、自分が何故この家に生まれてきたのかが良くわかったと僕と嫁さんに言います。親として嬉しい瞬間です。
一方で、自分の親から虐待を受けたり、殺されてしまった子どもたちのニュースもあとを絶ちません。空の上からあのお家に生まれたいとやって来たのに…。どうにもやるせない気持ちでいっぱいになります。その子の身になると涙が溢れて止まりません。辛かっただろうに。苦しかっただろうに。
だから、親は絶対に子どもを大切にしなければならないのです!誰よりも愛さなければならないのです!何故なら、少なくとも子どもは親を慕い、この世に生まれてくるのですから。

2、「親は子どもを溺愛する義務がある」
子どもに選ばれた親として、親は子どもを溺愛する義務があると僕は思います。選んでくれた子どもに対し、100%の愛で報いることは当然のことだと思うのです。それが親によっては不器用な形であろうと、山あり谷ありであろうと、そんなことは構いません。とにかくいつも正面から子どもと向き合う姿勢が大切だと思います。昔、テレビドラマの台詞でこんなものがありました。
「自分の子どもを甘やかせて何が悪い?親しか自分の子どもを甘やかせないだろ!」と。
甘やかすという台詞を、叱るや褒めるに変えてもこの台詞は立派に成立するフレーズです。親が常に子どもと正面から向き合う姿勢を取れれば、時に甘やかすことも子どもの成長には大切なことだと僕は思います。

第2話

3、「叱ると怒るは違うもの」
子育てにおいて、叱ると怒るは全く別のものです。
叱ることが、子どもを正す意味で起きる感情だとしたら、怒るは単に親の身勝手な感情だけで起きる行動だと思います。

子育てにおいて、親は子を思う感情から起きる“叱る”という感情のみで子どもと接したいと思います。
「夕べ、ウチの子に何度言っても聞かないから、怒ったのよ」
「夕べ、ウチの子に何度言っても聞かないから、叱ったのよ」
漢字にすると、たった一文字の違いですが、叱ると怒るの違いを知った親なら受け手のニュアンスは全く別のものです。
常に子どもの立場になり、叱れる親でありたいと思います。

第3話

4、「子どもと正面から向き合う」
学生時代、僕は野球部におりました。長嶋茂雄さんに憧れ、野球をすることが大好きでした。そんなとき、良く監督さんから言われました。
「打球は正面で捕れ」と。
子育てに関しても、子どもという打球を正面で受け止めるということは大切なことです。
子どもはどんな打球を打ってくるかわかりません。時としては、とんでもないイレギュラーバウンドの打球も打ってくるでしょう。そんなときも親はとにかく正面でその打球を受け止めることが大切です。正面で受け止めるには、日頃から足腰の鍛錬が必要となります。子育てにおいての足腰の鍛錬は、常日頃から子どもの身になり、子どもを理解しようとする努力だと思います。
例えが野球になってしまい、抽象的でわかりづらいかもしれませんが、何故打球に対してなるべく正面で捕れと言われたかは、正面だと打球をエラーしてもその球が身体の前に落ち、打者をアウトに出来る可能性が高くなるからでした。
正面で捕ることは、子どもが放つ打球という様々な問題をアウトに出来る、即ち、解決する一番の基本だと僕は思うのです。

第4話

5、「子どもにごめんないと素直に言える大人でありたい」

野球の例えが続いて申し訳ありませんが、子どもが放った打球に対して、正面に入れず、思わずグラプを逆さまに出して、逆シングルで捕ってしまうこともあります。捕れればまだ良いのですが、これがエラーとなった場合は、子どもを深く傷つけてしまうなんてこともあります。
そんなときは、どうするか?
野球なら、チームメイトや監督に謝ります。それと同じように子どもにもきちんと謝るべきだと僕はは思います。
相手が子どもだから、親として、大人としてカッコ悪くて謝れないという方もいるでしょうが、むしろ、潔く自分の非を認め、謝れる大人の方が僕はカッコイイと思います。この積み重ねが、親と子の信頼関係を育んでいくと僕は思うのです。
こんなことを言ってる僕も昔は、それこそ叱るではなく、自分の感情の赴くままに、娘を怒ったことが多々ありました。(あんなに怒鳴らなくても良かったのに…)などと、怒ったあとに猛省はするものの、大人のプライドからごめんないが言えない、それどころか、自分の怒りを正当化しようとした僕がいました。
が、ある日、これではいけないと思った僕は勇気を振り絞って娘に「パパが悪かったね。本当にごめんね」と謝りました。娘は、「良いよ」と微笑んでくれました。自分が救われた瞬間でした。

第5話

6、「子は親の師であり、親は子の師であれ」
子どもが生まれたからと言ってその日から、いきなりその人が親になれるわけではありません。
まずは、子どもがその大人を選んでくれたときから、選ばれた大人の方も親になる自覚が最低限必要となります。
そして子どもが誕生し、そこからは日々の子どもとの接し方となります。自分の子育てを振り返り、前述したように、“子どもにごめんなさい”と言えるようになれた自分を思うとき、親になるには子どもから学ばさせてもらったことのほうが実に多かったことに気付かされます。子どもに感謝しきりです。
“子は親の師であり、親は子の師であれ”
子育ての最中、子育てに関して様々な問題にぶち当たり、親は悩み、迷い、時に真っ暗にもなります。が、そんなときも子どもはいつも親の味方でいてくれます。そして暗闇に光を注いでくれるのです。
実は子どもこそ、親が親になるための親のような存在なのです。

第6話

7、「子は鎹(かすがい)」
娘がまだ小さい頃、確か3歳位。些細な事から夫婦喧嘩となり、日頃溜まっているお互いの鬱憤が一気に爆発したことがありました。そうなると互いの罵り合いです。嫁さんが鞄に荷物をまとめ始め、ヤバイなと思いながらも、僕も意地から止めることが出来ず、出て行くなら出て行けっ!となり、嫁さんも荒々しく洋服などをバックに詰め込むその姿を見ながら、「娘は渡さないからな!」と言う僕に、嫁さんは「何言ってんの!私が連れて行くに決まっているでしょ!」となり、益々二人の仲が険悪となる中、僕のデカい声に娘が起きて来て、すぐにパパとママの状況を把握した娘。
「ママ、何してるの?」
「ママはパパと離れて暮らすことにしたから、○○ちゃんも仕度しなさい」
「いや、○○ちゃんは、パパと暮らすから大丈夫。○○ちゃんはパパの方が好きだものね!」と言って嫁さんに、
「一人で出て行けよ!俺も○○もここに残るから!」と心とは裏腹の言葉を嫁さんに浴びせたのでした。すると嫁さんはその言葉に涙を流し始めました。
本当はしまった、言い過ぎたと思いながらも、もう僕も引っ込みがつきません。すると娘が僕と嫁さんとの間に割って入り、
「パパもママも何してるの!何でケンカなんかするの!どうしてケンカなんかするの!どうして!○○たち、3人家族でしょ!」と号泣し始めたのでした。
僕も嫁さんも黙ってしまいました。娘は泣きじゃくりながら続けます。
「パパもママも仲直りしてよ!3人でずうっと暮らすんでしょ!○○は、パパともママともずうっと一緒にいたいんだよ!」と。
この時のことを娘は今もちゃんと覚えているそうです。勿論、嫁さんは鞄に詰め込んだ洋服を元に戻し、僕と嫁さんとの仲も元に戻りました。子は鎹とは良く言ったものです。子どもに感謝です。

第7話

8、「我が子はいつまでも我が子」
バツイチの僕には、前妻と離婚した時、2歳になる息子がいました。息子とは会わないことを約束に離婚しました。が、息子には会いたい。でも会えない。僕はお袋の名前で、毎年正月にはお年玉、子どもの日と誕生日とクリスマスにはプレゼントを贈りました。
やがて息子が小学生高学年となった時、前妻からお袋の所に連絡があり、息子ももう大きくなったので、こういったプレゼントは送らないで欲しいと手紙が来ました。そして時は流れ、2011年3月、東日本大震災が起きました。
僕は地元で、「キャッチボール」という様々な職種の方たちを毎回ゲストに招いて、対象とした子どもたちに世の中には色々な仕事があり、それぞれに素敵な可能性を見い出すことが出来ることを毎月、子どもたちが集う施設で説いていました。
そんな2011年の4月。そのイベントを終えた僕が後片付けをしている時に、一人の若者が声をかけて来ました。
「あのう、ビリーさんですよね?」
「はい、ビリー諸川です」
「僕、○○です」
その若者が別れた息子だと知って、時が止まりました。音も消えました。その空間に僕ら二人しかいないといった感じでした。そしてすぐに僕は彼を強く抱き締めました。周囲の目など気にすることもなく、僕は泣きました。周りにいた子どもたちも一瞬、ビリーさんどうしたんだろ?みたいな空気となりましたが、すぐにそれが素敵なことだと理解出来た子どもたちは、再びワイワイガヤガヤと遊び出しました。
聞けば息子は、僕の動向をSNSなどで知っていて、偶然を装い会えないかと何度か僕の地元を歩いたそうです。僕も1日たりともキミのことを忘れた日はないし、その証拠に常にキミの写真を持ち歩いていることを息子に伝え、それが事実だということを示すため、実際に彼にそれらの写真を見せました。彼も嬉しそうでした。でも、どうして会いに来たのかを訊くと、今回の震災で、もしかしたら会えなくなってしまうのではないかと思い、それで会いに来たとのことでした。僕は無言でもう一度彼を抱き締めました。僕に会いたいと思わせるような育て方をしてくれた前妻に感謝した時でもありました。
ずうっと会えずにいましたが、我が子はやはりずうっと我が子なのだと実感し、愛おしくてたまらない感情に包まれました。
僕がPTA会長になって自分の子どもだけでなく、多くの子どもたちとも向き合い、保護司もしていたその根幹にはこの息子と正面から向き合ってあげることが出来なかった悔恨と懺悔の気持ちがあったことは言うまでもありません。

第8話

9、「色々な仕事がある」
保護司をしている時に、就労に苦労する子どもたちを見て始めたのが「キャッチボール」(2009年11月から述べ23回開催)というトークイベントでした。毎月1回、地元にある子どもが集うスペースを借りて、開催していました。毎回、様々な職種の方をゲストに招いて、何故その仕事に就いたのか?から始まり、仕事の苦労話や喜び、果ては人生を語ってもらうといった内容で、年一回は公会堂を借り切り、著名なゲストも招いたりして開催していました。
それにしてもどんな人にも必ず人生にはストーリーがちゃんとあるんだなあと感心したものです。自分の人生を語る機会がないだけで、その機会が与えられたなら、どの方の話も本当に興味深いものばかりでした。ペンキ屋さんから印刷業、俳優さんからフィギュアの原型師、区長さんからレコーディングエンジニア、デザイナーから出版編集者など、本当に幅広い業種の方たちから貴重な話を窺える機会、それが「キャッチボール」でした。
そんな中で、目から鱗というか、大いに感心して納得した事柄がありました。
山本ゆうじさんという日本で最初にスポーツとDJを融合させたスポーツDJという職種の方で、スポーツ会場の中で客席を盛り上げるMCや音楽を流すという、今ではすっかり認知された職業ですが、山本さんがこの業種をスタートさせた30年前は相当な苦労があったようです。この山本さんが、実に素敵な話をしてくださいました。
「皆さんの中には、プロ野球の選手を目指したけれどなれなかった人はいないでしょうか?」
という山本さんの問いかけに、司会進行の僕が真っ先に手を上げました。僕の中学までの夢はプロ野球選手になって、お袋を楽させるというのが夢でした。けれども中学3年生の時に右肘を壊し、野球が続けられなくなってしまったのです。普通なら途方に暮れてしまうのでしょうが、僕の場合はすぐにエルヴィス・プレスリーのおかげで人生の目標を見つけることが出来ましたから、落胆度は最小限で済みました。が、それ一筋に頑張ってきたのに、結局目標を見失ってしまったいう人にとって、その心の痛手は相当に辛いものだと察します。そんな中、山本さんが仰ったのです。
「プロ野球選手になれなくても、それに携わる仕事に就くことは可能です。例えば、野球なら審判職もあるでしょう。球場の係員、グランド整備員という仕事もあるでしょう。球団の関係者になる道も、用具を扱うスポーツメーカーの道もあるでしょう。要するに関連する仕事に就くことは可能なんです」
この話を聞いて、本当になるほどと思いました。確かに夢を閉ざされた時のショックは大きなものでしょうが、目先を変えて、関連業種に進んで、そこでプロとしての道を極めることも人生の在り方だということを山本さんは説いてくださったのでした。

第9話

10、「親子間での思いやりのキャッチボール」
ある日の夕方、大手ファストフードでハンバーガーを食べているとき、隣に座った母親と娘。娘さんは、小学校1年生くらいでしょうか。隣にいますから、二人の会話が聞こえてきます。
「○○ちゃん、そんなにポテトを食べちゃったから、もう夜ご飯は食べれないね」
母親の問いかけに娘は、
「ううん。あとでまたお腹がすいちゃうと思うよ」
「そっかあ。だったら、夜ご飯は何にしようか?ママも今日は仕事で疲れちゃったし…」
夜の献立にちょっと頭を抱えた感じの母親。すると娘が、
「昨日の残りのカレーライスで良いよ」
と。
「ママのカレー、美味しいし」
そのときのこの子が母親に向けた笑顔が何とも素敵で今も忘れられません。母子家庭なのかもしれません。たぶんそうなんだろうなあ。僕自身、父親を7歳の時に無くし、母子家庭で育ちました。そして僕自身、離婚したことで、母子家庭を作ってもしまったのでした。だから、母子家庭の親子を見ると猛烈に応援したくなってしまうのと同時にどうしようもない切ない気持ちにも襲われてしまうのです。僕の師であるエルヴィス・プレスリーが「世界じゅうの人、みんながお金持ちになれれば良いのに」と。彼は自分がお金持ちになってからはあらゆる財団に寄付をしまくっていました。話が逸れてしまいましたが、この女の子が疲れて、されど自分が食べたいポテトを買ってくれて、しかも夜ご飯の献立まで自分のために考えてくれる母親のことを思いやっているのがその「ママのカレーは美味しいから」と言った笑顔に溢れていたのでした。
子どもって凄いなあ。だって、親を思いやっているんですもの。親の状況を瞬時に判断してあんな笑顔を向けられるんだもの。などと僕は感心しきりでした。
子どもの思いやりの気持ちを育むには、まずは親が子を思いやることが一番です。親子間でのキャッチボールをたくさんしたいものですね。

第10話

11、「客観的に見ることを子どもから学ぶ」

僕は人前でエンタテインすることを生業としています。そして恥ずかしながら、15年位前に、自分のステージを客観的に見ることが、より魅力あるステージを作る上で大切だということに初めて気付いたのでした。自分が客でステージを見たら、こういったステージだったら楽しいだろうなあ、笑えるだろうなあ、また見たいと思えるだろうなあ、などときちんと意識するようになったのです。それまではこういった考えは恐らくは潜在意識にはありながらも、無意識でやっていたのだと思います。この無意識でやっていたことを意識してやれるようになったきっかけはやはりPTA会長を務めたことが大きかったかと思います。例えば、朝、校門に立ち、子どもたちを迎えます。大抵の子どもたちの表情は冴えません。眠いから。何となく憂鬱だから。など、理由は様々だと思います。そんなとき、子どもたちから見て、門のそばに立つおじさんはどういった表情で出迎えることが、少しでも子どもたちの表情を和らげるのかを考えました。満面の笑みも良いでしょう。でも中には、この満面の笑みを見たくない子もいます。満面の笑みではなく、柔らかい笑み。微笑み。そうなんです、笑顔も物凄い種類があるのです。だから、僕は子どもの立場になって、その子の身になって、笑顔をその子どもによって使い分けていました。そんな器用なことをしてたのか?と言われそうですが、していました。元来、そういった考えが潜在意識の中にあったわけですから、それを意識してやる方に仕向けることは決して難しいことではなかったのです。そして、こういった経験が今も自分の生業に生かされていることを思うと、PTA会長をやって本当に良かったと思っています。子どもたちに感謝です。

第11話

12、「子どもの目線で話をする」
これは、エルヴィス・プレスリーが間接的に教えてくれたことでした。エルヴィスは意外にも子どもが似合うアーティストで、事実、彼が主演した映画には、そんな子どもが似合うシーンがいくつもの映画に登場しています。1957年の「さまよう青春」に始まり、1961年の「ブルーハワイ」、1962年の「夢の渚」、「ガール・ガール・ガール」、「ヤング・ヤング・パレード」、1963年の「アカプルコの海」、1966年の「ハワイアン・パラダイス」、1967年の「ブルーマイアミ」と「スピードウェイ」など、どれも子どもが共演する映画の中で、身長183cmのエルヴィスは、子どもと対峙したとき、必ず子どもの目線に合わせて、身体を屈めていたのです。これを見たとき、何てエルヴィスは素敵なんだろうと思い、僕も思いっきり真似ることにしました。これも子どもの身になって想像してみればすぐにわかることです。例えば身長178cmの僕が、仮に40cm高い人間と対峙したとしましょう。相手は218cmです。かなりの威圧感があることは容易に想像がつきます。その218cmの人が僕の目線まで屈んでくれたら?などと想像してみましょう。常に子どもの立場に、そして身になって考えることがやはりとても大切なことなのです。

第12話

13、「子どもの立場になって、子どもの真意を知る」
子どもの立場になり、その子の視線で物事を考え、それによってその子の真意を知り、大人としてきちんと対処出来れば、親バカとしてこれ以上の素敵な親はいません。そのためには、親として常に鍛錬が必要です。鍛錬には、何と言っても、突発的に、また感情的に怒ることをグッとこらえることです。ついカーッとなってしまうことはこんなことを書いておきながら、僕だって実はしょっちゅうありました。でも、いかん!ここで怒っちゃいけない。我慢、我慢!ぐっとこらえるんだ!この子のためにはこらえなきゃいけないんだ。感情的に怒っても何も良いことなどないのだから。なんて、自分に言い聞かせながら、深呼吸したあと、何故この子はこんなこと、あんなことをしてしまったんだろう?言ってしまったんだろう?などと子どもの身になって考えてみる癖をつけるように努力すると良いでしょう。すると子どもの真意が見えてくるようになります。なんて、もっともらしいことを書いている僕もまだまだ未熟者で、しょっちゅう猛省している子育ての日々です。

第13話

14、「親の子どもの頃の夢を子どもに話してみる」
先日、子どもたちを連れて、僕が小学生高学年の頃に学校から帰ってくると毎日のように通った洗足池のグランドに行きました。そして、「パパはその頃、ひたすら長嶋茂雄さんのようなプロ野球選手を夢見て、毎日のようにここで野球をやっていたんだ」と話しました。ただ僕が子どもたちに自分の子どもの頃の夢を話すのはしょっちゅうあることなので、子どもたちは、パパがプロ野球選手になりたかったという話に関しては大して食いついてはきませんでしたが、実際に父親が毎日のように通ったグランドを目の当たりにしての説得力にはある種の感動があったようです。
そのとき、僕は11歳の僕がグランドで白球を追う姿、バットを振る姿、5つ違いの兄からノックを受ける姿などをそのグランドの中に蘇えらせていました。
昔、田園コロシアムという競技場がありました。テニスの公式大会などが行なわれていた場所で、プロレスの興行も行なわれていました。そこに小学3年生のときにお袋におにぎりを握ってもらって一人でジャイアント馬場さんの試合を見に行きました。当時の将来の夢がプロレスラーになることだったからです。その田園コロシアムは今はもう存在しませんが、近くを通ると必ずあのときの自分が蘇ってきます。
トロンボーンを見ると今も小学2年生に戻ります。その頃の夢はトロンボーン吹きになることでした。同様に、ローラースケートを見ると、小学4年生の頃にアメリカからそのブームが入ってきたローラーゲームにハマり、一瞬、ローラーゲームの選手になることを夢見た僕でした。
そして、中学3年生の時に猛然とエルヴィスになりたいと思い、ひたすらエルヴィスを追い求めて45年。僕は思うんです。例え夢が叶わなくても、夢を持つことは素晴らしいことだと。生きる上で一番辛いことは目標を見失うことです。自分が子どもの頃にどんな夢を持っていたか、何になりたいと思っていたかなどをぜひ今夜にでもお子さんに話してみてはいかがでしょうか?僕自身の経験からもそれを聞いた子どもは間違いなく、健やかに育つと僕は確信しています。

第14話

15、「見上げてごらん、夜の星を」
娘がまだ小さかった頃、良く自宅のマンションのベランダにマットを敷いて寝そべり、二人で夜の空を眺めたものでした。僕の子どもの頃の夢も良く話しました。娘の小学校での出来事なども良く聞きました。天気の良い夜など本当に最高のシチュエーションです。月が出てたら、最高。星がくっきりだったら尚更です。冬の寒い夜は不要になった毛布を活用。二人でそれをかけて様々なことをたくさん話しました。何ともいえない開放感があって、娘に伝えたいことを素直な気持ちでいっぱい伝えることが出来ました。僕はアウトドア派の人間ではないのですが、恐らくキャンプに行ったときはこんな開放感があるんだろうなあと想像しました。星空を眺めると、本当に宇宙って大きいなあと思います。今見えている星の光は、あの星から何光年も前に放たれ、今、地球に届いているものだと気づくだけで、宇宙のとてつもない大きさに感動し、いっぽうで人間の一生とは何て短いものだということにも気づかされるのです。だから、その“一生”を一生懸命生きる、生きることが一番などと解釈して、一度きりの人生を大切に生きなければいけないということもそのときに伝えました。もちろん成人した娘は今も親子で横になって夜の星を見上げたあの日のことをきちんと覚えているそうです。

第15話

16、「親の失敗談を話してみる」
小学校低学年の息子に訊かれます。「パパはテストで0点を取ったことがある?」僕は答えます。「あるよ」ちょっと驚いた顔の息子が続けます。「へえ〜、あるんだ。何年生のとき?」「高校2年生のとき。生物で0点を取ったよ」「それでどうだった?」「どうだったって…。恥ずかしかったよ。パパはテストを返してもらったときに、マルが一つあったんだと思って、おーっ、良かったあ!となって友達に見せたら、それがマルじゃなくて点数だったんだよ」「それでパパはどうしたの?」「パパのお兄さんに生物を教えてもらって、そしたら96点を取ったんだけど、通信簿には48点(中間と期末試験の合計点での平均点)と表記されてそれでお終い」と息子に微笑みました。
こんなこともありました。運動会を翌日に控えた息子。「パパはかけっこは早かった?」息子の問いかけに僕もきちんと答えました。
「パパはかけっこは全然ダメだった。マラソンみたいに長く走るのはそこそこだったけど、運動会とかのかけっこは全然ダメだった。本当に遅かったよ。一番悔しかったのは、中学3年生のときに、野球部の練習試合で、トリプルプレーでアウトになっちゃったんだ」「何それ?」「ノーアウト、ランナー1塁、2塁でバッターのパパが強いサードゴロを打ったら、三塁手がそれを捕ってサードベースを踏んでワンアウト。その三塁手がセカンドに送球してツーアウト。そしてそのセカンドからボールがファーストに送られてスリーアウトのトリプルプレー!野球部始まって以来の屈辱だっていうことで監督からとても叱られたのを覚えているよ」「そうなんだ…」「中学3年生なのに、中学1年生にもかけっこは負けたりしてたからね。だから、パパは悔しくてね。それでパパの家の近くに短い坂道があったんだ」「それで?」「足が速くなりたくて、毎晩、その坂道を何度も何度もダッシュしたんだ」「それで速くなったの?」「ほんの少しだけど速くなったよ」息子は僕の噓偽りない話を真剣に聞いていました。そして「僕は走るのが大好きなんだけど、速くないんだ…」「パパは走ることは小さいときから好きじゃなかったなあ。野球やってたときもホームランを打てば良いやって思っていたから。ホームランなら足が速い、遅いは関係ないだろ?まあ、パパはホームランも打たなかったけどね」「明日、ビリになっても良い?叱らない?」「叱らないよ。何故??れるの?パパはキミより足がもっと遅かったんだよ。おまけにパパは走ることが好きじゃなかった。走ることが好きなキミのことを叱る資格などパパにはないよ。大丈夫、好きなら必ず速くなるから」息子は安心した顔になりました。
子どもからすれば親はいつだって尊敬に値する存在でいて欲しいと思っていることでしょう。一見、失敗談を子どもに伝えることは親の権威を損ねることだと思ってしまうかもしれませんが、そんなことはありません。失敗をどう克服したか?どう対処したか?を伝えることのほうが大切だと僕は思います。子育てにおいて、カッコ悪いことを子どもに話すことは必ずしもカッコ悪いことではないのです。

第16話

17、「好きこそ物の上手なれ〜継続は力なり」
前述したように、走ることが好きな息子は、いつかきっと努力することで速くなると僕は信じています。何故そう思えるかは、僕自身がそれを身を持って証明出来たからです。“好きこそ物の上手なれ”、まさに僕の人生は好きなものを極めることに務めてきた人生でした。中学3年生のときにエルヴィス・プレスリーに魅せられて、「自分もプレスリーみたいになりたい!」と強く思い、それまで歌うこととは無縁な人生を歩んできたことなど何のその。自分の歌の下手さとエルヴィスとは似ても似つかぬ容姿など気にすることもなく、ただひたすらエルヴィスを追い求める毎日でした。あれから45年。本当に色々なことがありました。高校を卒業して5つ違いの兄に“エルヴィス道”を諭され、丁度そんなときにエルヴィスが42歳という若さで亡くなり、改めて、「自分はエルヴィスになるんだ!」と強く誓ったのでした。などと書くとカッコよすぎですが、実際はそれから歌の道に入るためカントリー歌手のジミー時田さんに弟子入り志願して、あまりの下手さに何度も断られ、それでもめげずに何度もジミーさんの許を訪ねたことで、ようやく3カ月後に根負けしたジミーさんから弟子入りは許されたものの、その後もメジャー・デビューの道は遠く、結局、1977年にジミーさんに弟子入りしてから12年後の1989年にやっとのことでプロの歌手としてデビュー出来たのでした。その間、ビルの清掃業務やホテルの客室清掃、電気工事に大学の学食での調理補助に皿洗い、トラックの運転手に文房具の営業など様々な職を経験しましたが、頭の中はいつもエルヴィスで、全くブレない目標に向かってただひたすら“エルヴィス道”を邁進していました。本当に好きだったんですね。そしてその念のようなパワーは音楽評論家の湯川れい子さんを突き動かし、結果、1988年7月にメンフィスのサン・スタジオでジェームス・バートンやD・J・フォンタナ、グレン・ハーディンといった本物のエルヴィスのバッキング・プレイヤーたちとレコーディングするという幸運に恵まれたと同時に、長年夢見てきた「自分はエルヴィスになるんだ!」という夢を達成した瞬間でもありました。そして、その後もそれまで育んだエルヴィスの知識で、CDなどの解説文の他にエルヴィスに関する6冊の本を上梓することが出来ました。今も歌や文章は相変わらず上手いとはいえませんが、それでも昔に比べればだいぶまともになったほうです。エルヴィスを好きになって45年。歌が下手だった僕の場合は、“好きこそ物の上手なれ”の相対的な同義語として、“継続は力なり”という言葉もまさに的確だと今、実感しています。ですので、例えその時点では、結果が出せなくてもお子さんが好きな道を見つけて歩み始めたら、親としてぜひ温かく見守って欲しいと思います。

第17話

18、「子どもの夢を応援してあげる」
僕が最初になりたかった職業はプロのトロンボーン吹きでした。小学2年生のときで、テレビてクレイジーキャッツの谷啓さんがトロンボーンを吹いているのを見て、自分もトロンボーンを吹きたいとなったのでした。丁度その頃、僕の父が他界し、諸川家は母親の女手ひとつで僕と兄を育てていかないといけないという時期でした。少しでも無駄遣いを無くし、とにかく親子三人で頑張っていかなければならないそんな大変な時に、生来わがままだった僕はそんなことはおかまいなしに、母親に「僕、トロンボーンが欲しいんだ!どうしても欲しいんだ!」とねだったのでした。トロンボーンを紙で作ってくれた兄は猛反対でしたが、オフクロは他の出費を抑えて、銀座のヤマハで買ってくれました。ラーメンが50円という時代での16000円。そんな無理をしてまで買ってくれたトロンボーンでしたが、実際に手にしたら吹く努力をすることもなく、一カ月もせずにトロンボーン吹きになることを諦めてしまいました。本当に最低なガキだったのです。
次に夢中になったのが、小学3年生のときに出会ったプロレスでした。将来はジャイアント馬場さんとタッグを組んでインターナショナル・タッグチャンピオンになるんだと決めていました。兄は、金曜8時からのプロレス中継が終わると必ずといって良いほど、僕とプロレスごっこをしてくれました。わざわざ額にケチャップを塗っての兄の熱演でした。オフクロは、仕事の帰りにプロレスの記事が出ている東京スポーツを良く買って来てくれました。小学3年生において、僕がまだ習っていない、「死闘」とか「奪還」、「防衛」や「乱闘」という漢字を難なく書けたのは全て東京スポーツのおかげでした。オフクロが握ってくれたおむすびを持って、自宅から電車に乗って、割と簡単に行けた田園コロシアムに馬場さんの選手権試合を観に行ったこともありました。僕のプロレス熱は、小学4年生の終わりに野球と出遭うまで続きました。
ある日僕の同級生の野球チームが人数が足りないということで誘われ、当時野球部に在籍していた兄の使い古したグラブを借りて参戦しました。ところが、いざグランドに行ってみると人数は足りていて、僕はセンターとライトの後方を仕方なく守らされる補欠要員での参加となりました。生まれて初めての野球でしたから当然全打席三振。にもかかわらず、僕は野球の魅力にすっかり取り憑かれてしまいました。それからは、毎晩兄と庭で素振りをして、自分用のグラブも買って貰い、長嶋茂雄さんに夢中になりました。長嶋さんがローリングスのグラブを使っていたから僕もローリングスの軟式用グラブを買って貰い、長嶋さんと同じ背番号3のジャイアンツのユニホームを買って貰いました。オフクロは日曜日も返上して働いていたにもかかわらず、息子が野球に夢中になったと知ると、疲れを見せることなく、一緒に神宮球場へ巨人戦を観に行ってくれました。野球のルールなどもわからなかったにもかかわらず、オフクロはとにかく僕の将来はプロ野球選手になるという夢をまさに無償の愛情で応援してくれました。そして私立の野球の名門中学に通わせてくれたにもかかわらず、中学3年の夏に受けた高校の野球部のセレクションのときに肘を壊し、あっけなく僕のプロ野球選手になるという夢は散ってしまったのです。
ところが今度はすぐにエルヴィス・プレスリーに夢中となり、それから45年、今もエルヴィス道を歩んでいる次第です。
オフクロは93歳でこの世を去る少し前に僕に言いました。「おっかさんは、長男が大学教授で次男がロカビリー歌手でいることを誇りに思いますよ」と。そうなんです、オフクロはいつだって僕の夢を応援してくれました。味方でいてくれました。僕はそんなオフクロに深謝し、心からオフクロを誇りに思っています。

第18話

19、「子どもと手をつなごう」
先日、前を歩く親子がいました。お母さんは、27〜30歳。娘さんは5歳位の可愛い子でした。お母さんは歩きながらの携帯。娘さんはその背後をウロウロ。そして時たま、母親を追い越して、低い石垣の上に飛び乗ったりしています。「ねえ、ママ。凄いでしょ?」自慢気に石垣の上で母親に手を振る娘。母親は一瞬そんな娘に目をやりながら、「危ないからやめなさい!」と言って、再び視線は携帯の画面へ。とそのとき、石垣の上で飛び上がった娘が足を滑らせ、地面にずり落ちました。幸い高さもなく、足から滑り落ちたため大事に至ることはありませんでしたが、びっくりして娘は声も出ない状態でした。そんな娘を見て母親が怒鳴りました。「だから、危ないって言ったでしょ!あんたバカなの?頭を打ったら死んじゃうのよ!」
そして母親は不機嫌そうに携帯をカバンにしまうと泣きべそをかいてその場に立つ娘を置いてさっさと歩き出しました。娘はその場を動こうとしません。母親が娘を振り返ります。そして「いいから、早くいらっしゃい!」とまた怒鳴りました。小走りで追いついた娘の手を母親はこのときようやく掴みました。「だから、お母さんの手を離しちゃダメだって言ったでしょ!」娘さんはただ泣いていました。
(だって、手をつなぎたくてもお母さんは携帯で両腕がふさがっていたじゃない)、(危ないって思ったら、何故そのときに私の手をつないでくれなかったの?)(携帯ばかり見て、何故私を見てくれなかったの?)(私、バカじゃない。ただお母さんの関心をひきたかっただけなのに…)など、娘さんも彼女なりの言い分はたくさんあるはずだったと思うのです。でも5歳位では言い返せないでしょうし、そんな理不尽なことを言う親でも、親には変わりはないわけですから、従うしかありません。でも少なくともこの子の自尊心は傷つき、このときの母親の酷い言動は彼女の脳の中に刻まれます。やがて彼女が思春期を迎えた頃には、今度は些細なことで彼女が母親を責めるかもしれません。立場が逆になり、母親が泣くかもしれません。母親をバカ呼ばわりするかもしれません。とまで考えてしまうのは、僕の勝手な妄想かもしれませんが、外を歩くときは、子どもが小さいうちはとにかく手をつないで欲しいと思います。子どもはあっという間に成長します。だから、子どもと手をつないで歩ける時間は意外と少ないのです。手をつなぐだけで、子どもはうれしいのです。安心するのです。心が通い合うのです。だから、子どもと手をつなぎましょう。子どもの手は小さくて本当に可愛いです。僕の歌の師匠のジミー時田さんは、晩年入退院を繰り返していた病院のロビーで、「モロ、ひとつお前に頼みがあるんだ」「何ですか、オヤジさん?」「お前の娘と手をつないで歩いてみたいんだ」そう言ってジミーさんはまだ小さかった娘と手をつないで病院内を歩きました。ジミーさんがそのとき言いました。「小さい子の手は本当に可愛いなあ」と。

第19話

20、「子どもの手本となる親になる」
良く、子どもは親の背中を見て育つと言います。だから、良い子に育って欲しいと願うなら、まずは親が良い大人にならなければなりません。それも子どもと一緒でないときも日頃からきちんとしなければなりません。でないと、思わぬところでボロが出てしまうからです。かつての僕はひじょ〜うに短気でした。今はそれじゃいかんとなって、だいぶ我慢出来るようにはなりましたが。それでもまだまだ未熟な僕はふとした時に暴言を吐いてしまうことがあります。例えば、以前、急いでいる時に、トロトロ走る前の車に向かって、思わず、「何っ、トロトロ走っているんだよ!このバカ野郎!」と子どもが同乗しているにもかかわらず、車の中で叫んだ時がありました。しばらくして、同じようなシチュエーションにまたまた出くわしてしまった時、何と僕より先に小さな息子が、「バカ野郎!さっさと行けよ!」と暴言を吐いたのでした。咄嗟に僕は、(あちゃー!)と思いました。僕の真似をしたんですね。そんな汚い言葉を吐いた息子を咎めることは出来ません。本当に猛省した僕でした。
子どもは本当に親を良く見ています。本当に良く見ているのです。ですから、親が手本となるような言動を日頃から心掛けることは、本当に大切なことなのです。
今は成人した娘がまだ小さい時に近所の馴染みのラーメン屋さんなど入ると帰る時は必ずお店の人に向かって、「ごちそうさまでした!また来るねえ!」というのが常でした。これはもっと小さい時から、僕や家内が必ず「ごちそうさまでした!」と言って店を出て行く姿を娘がいつもそばで見ていて、きちんと言葉が話せるようになってから真似たものでした。
こんな些細な、しかも常識的なことでも親は意識して子どもに手本として見せることを常日頃から心掛ける、そんな親でありたいと思います。
子どもを見れば、その子の親が見えるとは良く言いますが、まさに子どもは親のコピーで始まるのです。

第20話

21、「練習はウソをつかない」
前述したように、学生時代の僕は本当に足が遅くて、短距離走では入賞した記憶が全くありません。野球部始まって以来、トリプルプレーでアウトになったのもおそらく僕が最初で最後の選手でしょう。とても恥ずかしかったです。それで僕はとにかく家の前にあった短い坂道を毎晩のようにダッシュで駆け上がるトレーニングをしました。足が遅いことをコンプレックスにしている人間にとって、既にスタート地点に付いて、ヨ〜イと構えた時点で、どうせまた負けるんだ、勝てっこないんだ、と決めつけてしまい、案の定、負けまくりました。が、流石にトリプルプレーを食らったときは、これじゃダメだ。何とかしなくちゃとなって、とにかく坂道ダッシュを繰り返しました。すると、何とそのあとの体育の授業での50m走で、1秒近くもタイムを縮めることが出来たのです。びっくり仰天でした。何故そんなにタイムを縮めることが出来たのか?それは、自分への自信でした。あんなに毎晩坂道ダッシュをしたのだから、速くなっているはずだ、遅いはずがないと自分を暗示にかける確固たる練習量が僕を前向きにさせたのでした。
これまた前述したように、1977年の秋に僕はカントリー歌手のジミー時田さんに弟子入りを志願しました。カセットテープに自分の弾き語り音源を2曲入れ、カセットレコーダー持参でジミーさんの許を訪ね、聴いて貰いました。結果、一曲目の1番すら聴くこともなく、ジミーさんから、「ユー、ダメだね。これで歌手になろうなんて話にならないよ。帰りなさい」と言われました。
あれから40年。今だ歌が上手いとはいえませんが、この40年続けてきた自分なりの創意工夫は、自分が人前で歌うときの大きな自信となっています。その思いは、15歳のときにひたすら足が速くなりたくて、坂道ダッシュを繰り返した思いと何ら変わりないもので、僕は今も向上心を要する対象がある人生をうれしく思うのです。苦手なものでも、練習をもってすれば必ず克服出来ると僕は信じています。練習はウソをつかないのです。そういえば、先日行われた運動会で、息子が生まれて初めて徒競走で1位になりました。足が遅いことをコンプレックスに持ちながら、それでも速くなりたいとしょっちゅう走っていた成果でした。

第21話

22、「他者と比べない」
ウチの子は、近所の○○ちゃんより、背が低いとか食が細いとか、言葉が遅いとか痩せてるとか太っているとか、勉強が出来ないとか、果ては不細工だとか。もうやたらと比べたがる親御さんがいるようです。でも、一番最初に述べたように、子どもは空の上からあのお家の子に生まれたいと皆さんの許にやって来たのです。もうそれだけでその子を可愛がらなければならない義務があるのです。背が低かろうが、食が細かろうが、太っていようが痩せていようが、勉強が出来なかろうが、不細工だろうが、とにかくあなたの子に生まれたくて生まれたお子さんですから、欠点をも愛おしく思える、そんな親であって欲しいと思います。そしてどんな子にも必ず良いところはありますから、それをひとつでも多く見つけてあげることも親の義務なのです。
僕の兄貴は、小学生時代からいわゆるオール5の秀才で、大学も東京大学卒。その後、大学院へ進み、イタリアにも留学。現在は大学の教授です。
そして僕は、小学生時代からオール3(何故か図画と家庭科は5でしたが)で、高校時代には物理で0点を取り、大学よりエルヴィス・プレスリーになる人生を選んだ、いわば不安定人生を歩んで来た人間です。が、母親は、僕と兄貴を比べたことは一度もありませんでした。それは兄貴も同じで、自分が勉強が出来たからといって、勉強が苦手だった僕を蔑んだことはただの一度もありませんでした。それどころか、僕が20代の頃は二人で良く僕のライヴにも足を運んでくれました。だから、本当に居心地の良い家庭でした。
隣の芝生は青く見えると言います。でも本当の幸せは芝生などなくても良い。我が家が一番!そう思えることこそが本当の幸せだと僕は思います。

第22話

23、「ハワイの夕陽だけが綺麗というわけではない」
皆さんは、ハワイの沈みゆく夕陽を見たことがありますか?綺麗なんてものじゃありません。
ワイキキの浜辺で、海の上にポッカリと浮かぶデッカい満月を見たことがありますか?水面がその月明りでユラユラと揺れていて、それはもう生きていて本当に良かったと実感出来る光景です。
でも、実は何もハワイに行かなくても、この自然の美しさは皆さんが住んでる家のそばで見ることが出来るのです。ただそれに気がつかない、気づこうとしなかっただけなんです。
ビルの谷間から、丘の上の公園から、車や電車の車窓から、夕陽やお月様が見えたら、迷わず、心の中で思いっきり叫びましょう。「うわあ、なんて綺麗なんだ!」って。
子育てもまさに一緒です。
テレビに出ている著名な子どもや天才と称されるスポーツ万能な子どもたちだけが凄いわけではないのです。輝いているわけでもないのです。ご自身のお子さんにもその輝きは間違いなく存在しているのです。まだ原石のままならプロデューサーとして輝やかせてあげることが親の義務なのです。そのためには、子どもの良いところをいっぱいいっぱい見つけてあげましょう。そして褒めてあげましょう。そうすれば間違いなく、輝きを増します。そう、我が子が一番!それで良いのです。 

第23話

24、「車道側を歩かせない」
中学3年の時に僕はテレビでエルヴィスの映画を見てファンになったのですが、その時の映画『フロリダ万才』の〈スイムで行こう〉を歌うシーンで、最後にエルヴィスが共演女優のシェリー・フェブレーと砂山に倒れ込むのですが、その時、エルヴィスは自分が先に下になって倒れ込んだんです。
このシェリー・フェブレーという女優さんが当時僕が片想いしていた女の子に似ていたものですから、このエルヴィスの優しさは15歳の僕にはまさに衝撃でした。それもさりげなくやる、これが実にカッコよかったのです。
当時、買ったエルヴィスの伝記本は彼のように生きようと誓った僕にとってはまさにバイブルでした。そのバイブルに映画とは関係ない私生活の部分でも彼が女性や子ども、お年寄りに対して優しい人間だと知って、これは男の美学のひとつとして徹底しようと心に決めたのでした。
女性に対して奥手だった僕が生まれて初めてデートしたのは19歳の時でした。そのデートの時、狭い道幅にもかかわらず、車の行き来が結構ある通りで、僕は意識して車道側を歩きました。するとその彼女は、「諸川君は優しいのね」と。
あれから40年。僕は今も必ず自分が車道側を歩きます。嫁さんと一緒の時も、娘と一緒の時も、息子と一緒の時も。自分より立場が弱い人間と一緒の時は、その弱い立場の人間には絶対に車道側を歩かせないという自分の美学を徹底しています。こういったことを先ずは徹底することで、子どもを守らなければならない親の美学はどんどん膨らんでいくかと思われます。 

第24話

25、「とにかく自分が選んだ道を突き進め〜ネヴァーギブアップ!」
ロカビリーを歌い始めて、今年で40年となりました。
5歳上の兄に諭されて、英会話の学校へ行き、そこで知り合った友人のおかげで、人前で歌うきっかけを作ってもらい、調子に乗ってそのままカントリー歌手のジミー時田さんの許に押しかけ弟子入りをして、カントリーのライヴハウスで働くこととなり、そこで「下手くそ!」「歌の才能はないから辞めたほうが良い」「早く堅実な道に進んだ方が君のためだ」などと無責任なことを言われまくり、さらにちょっとした虐めにも遭って、にもかかわらず、メゲることなく、自分のバンドを組んで、エルヴィスと同じトラックの運転をしながら、プロの歌手になるチャンスを追い続け、されどなかなかやって来ないチャンスを、それを恨むことなく、「そうだっ!エルヴィスと同じように自分も自費レコードを作ってプロの歌手になるきっかけを掴もう」となって、自費レコードを制作、その一枚が音楽評論家の湯川れい子さんの耳に止まって、1988年7月にエルヴィスのバッキング・メンバーたちとレコーディング、翌年の1月にめでたくプロの歌手としてデビュー出来たのでした。19歳から31歳の僕。12年かかった念願のメジャー・デビュー。まさに人生は“ネヴァーギブアップ!”だと思います。特に自らが選んだ道に対しては、僕は今も自分に言い聞かせています。ネヴァーギブアップ!我が子にもさりげなく伝えています。

第25話

26、「子どもの歯が抜けたら?」
お子さんの歯が抜けたら、皆さんはどうされていますか?我が家は僕のオフクロが僕にしたことを踏襲して、僕の子どもたちにも同じことを行なっています。僕の子どもの頃は、歯が抜けると、夜は枕の下に、昼間は座布団の下に決まって10円玉がありました。オフクロがいない時に抜けたときは、昼間に抜けたにもかかわらず、夜になって枕の下に10円玉がありました。そして10円玉を見つけた僕に「歯の神様が来てくれて良かったねえ」といつも微笑んでくれました。小学校低学年の時でしたから、僕はオフクロの言葉を疑うことなく信じきっていました。そして大人になり、我が子を持つようになって、僕も我が子に同じことをするようになりました。10円玉を運ぶ歯の神様は歯の妖精さんに変わりましたが、枕の下に置くスタイルはオフクロと同じものでした。子どもが、歯がグラグラすると口にするようになってから、いつ抜けても良いように、すぐに枕の下に置けるように、10円玉を茶箪笥などに潜ませておきました。そして、「ママ、歯が抜けた!」となると、妻が子どもの気を逸らしている間に、すかさず僕が枕の下に10円玉を置くのです。そして妻が子どもに、「歯の妖精さんは来てくれたかなあ?」となって、子どもが枕の下をまさぐると、「あったあ!歯の妖精さんが来てくれたんだ!」というのが我が家の常でした。その喜びの顔を見るのもまた親の醍醐味の一つです。 

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